人口100万人あたりの死者数を上げ、75人という日本の数字は、欧州諸国では低い方がら3番目と4番目にある。
北西欧州での経験は、日本にとっても有意義であり、日本の経験も我々とにとって有意義である。
1970年代、先進諸国に1,2年先立って、日本は死者数を減少させたことは特筆されるとした。英国では、
日本よりも時間がかかった。
しかし、その後、日本では、横ばいになり、増加に転じたことは欧州では、心配していた。同様のことが欧州でも心配されたからである。
社会の高齢化に伴い、日本では、それに配慮していることも、我々は学ぶべきことがある。我々は、長距離のチームに一緒に入り、同じ目標に向かって走っている仲間であり、できるだけ先頭を走ろうとしている。先頭を走るのは、難しいことである。
必要な措置を講じても、社会経済的には、それを上回る価値を獲得できるとの認識を示した。企業や市民が、我々の政策を受け入れてくれなければ、ならないとした。
政策決定者、ステークホルダーを説得している必要がある。多くのステークホルダーがキックオフミーティングに参加していることは、重要である。国民は、交通安全に対して、同じ意識や認識を共有しているわけではない。悲惨な状況にあることを認識してもらう必要がある。
変化をもたらすためには、人々の考え方を変える必要がある。現在の死者や被害に対する認容を変える必要がある。
公共の場での害悪としては、いろいろあるが、銃、病疫の拡散、テロなどに対しては、寛容の度合いは、社会全体では低い。煙草、アルコール、麻薬の乱用は、社会と時代によって変わってきた。しかし、「車の乱用」に対する寛容性が高いとした。
交通安全政策に対する受容は一部であるとした。
対策があるにもかかわらず、対策の実施が遅れているというのは、人々の命が無駄に失われている、ということを認識しなければならない。
厚生大臣が、新しい抗ガン剤が開発されたにもかかわらず、保険の対象にしないというのは、考えられない。製薬会社の経営者が、副作用の改善が、低費用でできるにもかかわらず、行わないというのは考えられない。
しかし、欧州の交通大臣は、その信じられないことをした。
自動車、道路を使う自由を制約すると、人々が批判する場合がある。それは、安全に移動するという自由を奪っていると再反論することができる。
交通事故死は、偶発的で予告なく命が失われる。遺族は、強い苦しみを受ける。まして若い人であれば、悲しみは大きくなる。余命の価値は、自然死による余命の価値は、大きい。
道路上でのリスクは、他の日常生活でのリスクとは比べものにならないほど大きい。簡単に計算して、リスクは5倍となる。
道路は日常不可欠である。利用を避けられない。しかも防止する費用を投資すれば、回避が可能である。
大げさに道路上のリスクを叫んでいると非難された場合、そのリスクは、決して大げさではないと主張する必要があるとした。
変革のための継続的な動機付けが必要である。社会のリーダー、政策決定者、ステークホルダーに継続的に働きかける必要がある。
5年から10年で達成できる戦略と、長期的な哲学ビジョンを持たなければならない。
交通安全で最も世界で知られているのは、1997年スウェーデン議会の「The Vision Zero」である。非常に尊敬すべきお手本である。道路を使うことによる死亡事故、傷害事故をゼロにするという計画である。
デンマークでも、「交通事故の死者は受け入れられない」との声明を発している。日本の交通安全基本計画でも、「究極的にはゼロにする」としている。
だが、全ての国が、The Vision Zeroという概念を共有しているわけではない。コストの負担には限界がある。フィンランドでは、ある程度の死者数削減が達成できれば、他のリスクに対応するとしている。
行動の自由を制約することはできない。国民に受け入れられない制約を科した場合、我々は支持を失う可能性がある。安全が最終的な目標ではなく、人々が人生を享受するという目標を目指さねばならない。人生では、リスクを負う必要もあり、交通安全政策での、このような視点も欠かすことができない。
死者数を削減できる理にかなった政策であれば、人々は受け入れるだろう。どこまで、国民が道路利用の制限を受け入れるのか、その限度を超えてしまった場合、今までの努力が無になりかねない。
英国では、Vision Zeroという目標を掲げていない。道路上でのリスクを、他の日常生活のリスクと同様にする、という現実的な目標を掲げている。これを達成すれば、他のリスクと同様のレベルで議論できるようになる。
具体的な行動計画では、予見できる範囲の計画を策定する。どのようなビジョンで、計画が策定されているのか、それを検討するのは有意義である。多くのステークホルダーが協力する必要がある。関係者の合意があった上で、計画が策定されるのである。
専門家や政策決定者は道路の安全性を定義し、その実施に隠れた責任がある人々、例えば都市計画家や建築家、教育者、医師に対する教育が必要がある。
限られた資源の共有し、競合している。対応はされているが、全ての場合に対応できているわけではない。人々の行動は、リスクと比例するものではない。
規制、租税、教育などの措置が必要だ。
系統だった対策が必要で、そこに、計画を策定する意義生まれるのだ。あらゆるステークホルダーが協力する体制をとり、計画を新しいものにしていく必要がある。行動計画に合意、あるいは、暗黙の合意が得られる。あるゆるステークホルダーを合意を得て、コミットメントを得ることができる。
他の公共政策との協調効果、相乗効果を得ることもでき、あるいは相対する価値との対立に対する対応をとることができる。
行動計画を受け入れてもらうことは、超党派的に予算に対する獲得を期待できる。交通安全政策では、超党派的な協力が得られる分野である。受益者間の公正を確保することもできる。効果に対する評価ができ、新しい戦略の根拠とすることができるのである。
交通安全計画は、資源の利用という観点から、効果的なものである。対策の効果を定量化することが可能である。政策決定者、国民に対して、効果を示すことができる。全ての人に効果があることを示さねばならない。特定の人の命が救われるのではない。一般市民に訴える場合、この点は重要である。
計画により、より多くのリソースを配分することが可能になる。一連の効果により、費用対効果の高い、次の計画につなげられるのである。
目標と措置のと間の健全な関係が必要だ。先に目標を合意するのか、それとも措置に対する合意を優先するのか、それとも、混合させるのか。このアプローチは、重要ではなく、その過程によって、整合性のある措置と目標が設定され、それが合意されればいいのである。
あまりにも高い目標では、やる気を失う。バランスが必要である。低いレベルの目標は、ビジョンや戦略の代替であり、動機付けにはならない。
目標が達成できない場合、予見できない事態が発生したということである。
日本の具体的な状況では、1970年代から系統立った計画を実施してきた。では、それなのに、80年代90年代に増えたのは、なぜなのか、そして、最近の減少傾向を確かにするには、どうしたらいいのだろうか。
私は、ここに関連する問題があると考える。交通安全計画は、包括的なものである。第一線の政策や措置が含まれていない。道路側だけではなく、側面からの措置もある。死傷者削減効果がはっきりしないものもある。公共交通の利用促進や自転車駐輪場の設置などである。直接的な削減策に加えて、側面的な政策も考えるべきだ。
期間や対策の内容を考えると目標が高いのではないか。金銭的な価値で交通安全政策を評価するのは、OECD諸国と比べて熱心ではない。次期交通安全計画では、必要な人的資源、予算、政策目標の実現可能性を示すべきではないか。そうすれば、実現可能性が高まる。
日本のような大きな国では、全てのステークホルダーを参加させることは、挑戦的なことである。利害関係者が寄り参加するには、どうすれば、いいのだろうか。いかに皆が協力していくのか。実施に対するコミットメントを得ることも可能になるのではないだろう。 |